自身の平成史を振り返る~山あり、谷あり 今も発展途上です

中小企業診断士、FC×事業計画作成支援コンサルタント山下です。

昭和が終わった瞬間は大学受験を控えていて、当時は大学を出たら大手企業に就職するものと考えていました。そして、平成が終わる瞬間、まさか自営業で活動しているとは思いませんでした。平成最後の日に手短に振り返ってみます。

 

平成元年~5年:何も考えてなかった学生時代

自分は東京都文京区にある都立小石川高校を卒業、大学受験は思い通りにならず、立教大学経済学部に入学しました。あまり調べずに受験したので、入学したらまさかのマルクス経済が必須科目で大いに驚きました。試験で「N朝鮮、バンザイ」と書かざるを得なかったのは苦い思い出です。

ただ、1年生の時に簿記を学んだこと、2年以降は労務管理のゼミに入り、日本的経営と関連させて学ぶことができました。就職は東京都に行くことも考えた(試験は合格)のですが、交通機関に興味があったこと、民営化して魅力的に感じたJR東日本に入社しています。

 

平成5年~13年:最初の会社はJR東日本

JR東日本では旅行業を自分の分野に選びました。鉄道会社として、沿線の魅力づけというか観光地をプロデュースしていくことが重要だろうと思ったからです。初年度に総合旅行業務取扱管理者の資格を取り、団体旅行の添乗に1年目から行かせてもらいました。その後は団体旅行のセールスや個人旅行の企画をしています。当時は小室哲哉さんの曲を使って新幹線スキーのテレビCMをどんどん流していまして、自分は越後湯沢や長野、東北方面のスキー商品を作っていました。個人向けの旅行パックとして、宿を仕入れて鉄道と組み合わせますが、スキー商品だけで年間40億の売上がありましたので、旅行代理店にパンフを並べ、端末で販売できるように準備するのは大変でした。

途中の2年間は日本エアシステムという航空会社(JALに吸収され、今はありません)に出向させていただき、JRにいた6年間に匹敵する濃密な経験をさせてもらいました。

 

平成13年~20年:転職を重ね、中小企業診断士を取得

航空会社への出向の後、戻った先は地方支社でした。そこで担当したのは、指定席端末がない駅から電話がかかってきて、端末をたたいて指定席を押さえる仕事でした。端末のない駅ではカーボン紙に転機して指定席を販売します。航空会社で密度の濃い経験をしてきた後、この仕事を何年すれば良いのか悩みました。そんな時、ベンチャーキャピタル勤務からITベンチャーを立ち上げた大学の友人に誘われ、そちらで役員になりました。

社長はベンチャーキャピタル出身ですので、ITベンチャーとして急成長している企業の経営者にも多くの知り合いがいて、ビジネスのテンポの速さに驚いた記憶があります。ただ、ITバブルが終了し、仕事が極端になくなってしまったこと、激務で体調を崩してしまったことから、他社に転職させていただくことにしました(社長はその1年後の2003年に急逝、社長を支えていたナンバー2もリーマンショック後の2009年に急逝し、今はその会社はありません)。

自分の方は、1社挟んで中古車買取で急成長していたガリバーに入社し、フランチャイズの本部で多くの勉強をさせていただきました。ガリバーでは「給料よりも大事なことは目の前の仕事で多くの経験ができることだ」とご指導いただき、独立開業した今となっては全く同感です。もっとも、当時は「この給料では未来がないな・・・」と思いながら、慣れない仕事に取り組んでいました。フランチャイズ本部の仕事は加盟店へのサポート、ご指導になりますので、直営店でのマネジメント経験が無い自分が貢献できることを常に探していました。「経営のことを学んで、加盟店オーナーと経営の話をできるようになりたい」と感じ、中小企業診断士の試験勉強をすることで、予備校の先生方にご指導いただくようになりました。平成17年から試験勉強に取り掛かり、合格できたのは平成19年末で、2年半かかっています。会社勤めをしながら、大学受験の比ではないくらい勉強しました。

今も中小企業大学校という公的機関で中小企業診断士の養成講座を担当していますので、受講生には自分の経験をフィードバックするよう努めています。

 

平成20年~27年:組織で仕事する中小企業診断士

自分がガリバーを退職して独立開業したのが平成20年です。ただ、準備万端で独立したという感じではなく、自営業をしていた父が体調を崩し、仕事を継続できなくなったことから、自分が廃業の処理に関わらざるを得なくなったのが大きな理由でした。

独立当初は区役所の相談員や公的機関のアドバイザーのような仕事が中心で、割りと柔軟なスケジュールで仕事できたことから、頻繁に父のところに顔を出しつつ、会社の債務整理をお願いしている先生と打ち合わせをしていました。父は最終的には要介護3まで進んで、平成23年に67歳で亡くなりました。それと並行して大学院で学び、平成24年に経営学修士(MBA)を取得しています。

この頃は、区役所の相談員、公的機関のアドバイザー、別の機関のコーディネーター、とある企業の常勤役員など、組織に入って仕事をするのが中心で、独立開業というより組織での仕事が中心でした。ちょうどその頃住宅ローンを組んだのですが、「自営業なのに、報酬などの収入より給与の方が多い! こんなの独立じゃないですよ」と銀行員から驚かれています。

 

平成27年~31年:真の独立開業、法人化

自分が組織に属さずに仕事をするようになったのは平成27年からで、平成28年からは法人化しています。その前は常勤役員として仕事をしていたのですが、経営者に苦言を呈することが増えたことで、組織に居づらくなりました。準備ゼロどころかマイナス状態で突然組織を辞めざるを得ず、仕事が全く無い状態になりました。常勤役員という立場だったので、平日を空けなくてはならない仕事はすべて断っていたので、すっかりパイプが無くなった状態で、しばらくは執筆の仕事が中心になっています(執筆は週末や夜でもできるので、断らずに続けていました)。

平成27年は独立してから最低の売上で、独立する前の年収と同じまで落ち込みました。会社員の時の年収は自分が好きに使えるお金ですが、独立後の売上には経費がかかりますので非常に苦しかったです。時間があったので、まとまったセミナーを2本受講し、認定支援機関になるための長く拘束される研修にも参加しています。実はこの頃からブログを書いています(最近はペースが落ちましたが・・・)。

この時、ある程度の規模の仕事を受注するには個人でなく会社でないとダメだと感じ、思い切って法人化しました。法人化してからは、時折大きな仕事が入ってきて、浮き沈みはあるものの、消費税を払う立場になり、多くの経営者様とお仕事させていただくことになりました。

 

振り返り

多くの経営者様には「事業計画」が必要というお話をさせていただいておりますが、自分自身は行き当たりばったりの所が多く、計画を立ててもその通りにはなっていません。

強いて言えば、「中小企業診断士を取る」という目標を立て、予定通りに実質2回目の受験で取得できたこと、「法人化して、公的機関ではなく企業様から直接受注する」と決めて新規の直接受注できるようになったことです。

自身の計画については、組織を維持していく上での最低限の収支計画を立て、経費のコントロールと売上の確保に取り組み、常に管理をしています。ただ、抜本的に売上を向上させるための施策についてはまだまだ取り組みの余地があると考えています。令和に改元されるのを機会に、新たな収益源を確保していこうと考えています。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

◆自己紹介

私、山下哲博は、経営革新等認定支援機関の登録をしているビジネスコンサルタント(中小企業診断士)です。

得意分野はフランチャイズの本部立ち上げですが、会社の成長につながる経営計画作り、補助金申請など、ビジネスの成長、新規立ち上げをサポートしています。また、最近、スモールM&Aのサポートも始めています。

・創業時の創業計画、創業融資獲得

・店舗の収支改善、集客、多店舗展開・フランチャイズ展開→ハンズオンで支援します

・資金調達のための事業計画(銀行から言われたら一緒に作成します)

・日本政策金融公庫の経営力強化資金(通常より低利です)

・新しいことに挑戦する経営革新計画、経営力向上計画

・ものづくり補助金など、補助金申請

・会社の成長戦略を描くための早期経営改善計画(費用の3分の2は補助金使えます)

・スモールM&A(外部への会社/事業売却)のお手伝い

 

あとがき

10連休、最初の4日で長野県に行ってきました。残りは暦通りでゆるゆると溜まっている仕事に取り組みます。